2013年9月30日月曜日

ゼミ生の言い訳

ある日のゼミ生との会話。

先生 「昨日のゼミ、さぼったな。寝坊だろう。」

A子 「さぼりではありません。朝7時から起きていました。」

先生 「じゃあ、なんで来なかったんだ?」

A子 「ゼミに行きたくなくて…」

先生 「それ、さぼりだろう。」

A子 「違います!」



A子は、ゼミに行きたくなくて休んでも、それはさぼりではないと言う。

これを聞いたとき、少し戸惑った。

たとえば病気のためにゼミを欠席したのなら、さぼりではない。

やむを得ない理由だからだ。

でも「ゼミに行きたくない」という理由は、やむを得ないと言えるのだろうか。

おそらくA子は、こう言いたかったのではないか。

ゼミに行きたくなかったのは、単なる怠慢な気持ちではなくて、あることについて真剣に悩んでいたからだ。

体の調子を崩して熱が出るように、心の調子を崩して、ゼミに行くまでの精神力が出なかったのだ。

いわば心の調子を崩していた訳で、怠慢ではない。

したがってさぼりには当たらない。

こう考えると、A子の主張もわからなくもない。

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実は私も大学時代、よく授業を欠席していた。

今でも覚えているが、授業をさぼって、クラスの皆が授業を受けている2階の教室の下を歩いたことがあった。

「俺は今日から新しい自分になるんだ」と自分に言い聞かせながら。

その頃の私は悩みがちで、時々ヤケになって切れていたので、皆から「小型爆弾」などと言われていた。

悩んでいたことは、いつも些細なことだった。

友人から「おまえって、〜という性格だな」と言われただけで傷ついたり、やる気の出ない自分にイライラしたり…

自分を変えたくて仕方がなかった。

当時の自分は、授業を欠席することを「さぼり」だとは認識していた(ここはA子と違う)。

しかし「いけないことをしている」という認識はまったくなかった(ここはA子と同じ)。

どこかで授業をさぼっている自分を許していた。

悩むということは自分を見つめる作業であり、どこかで大切なことをしているという意識があった。

そのためだろうか、夜、アパートで一人であれこれ考えながら酒を飲むのが好きだった。

自分の性格について考える静かな時間だった。



(大学時代、私が住んでいたアパート)



その時ふと、大学を卒業してどこかの街に住んで、十数年がたったとき、大学時代のこんな生活も懐かしく思い出すのだろうなと思ったことがある。

実際にそのとおりだった。

特に今の年齢になってみると、当時の自分を思い出すと、懐かしく、そしていとおしく感じられる。


おそらくA子も、このような感覚で悩んでいるのではなかろうか。

A子には、「ゼミを休んでだめじゃあないか」という雰囲気で接したが、そう言いつつもA子を責める気持ちにはなれなかった。

でもね、A子、ゼミは休んではだめだよ。